■ 2018 小さな旅 12 ■
今回は大人の休日倶楽部活用第2段として、冬の日本海美食巡りと花の東京で刺激を享受する旅を敢行しました。低気圧の影響で日本海側は暴風雨気味で、新潟から秋田へ向かう途中、酒田で運休(代行バス)。次の日は秋田から青森へ向かう途中、弘前で運休(代替列車)したりと、冬のトラブルがありました。でも、それもまた良しとして味わい深い印象に残る旅を楽しんできました。
◎12/7 日本海沿岸を北上(新潟~秋田)
◎12/8 五能線に揺られて(秋田~青森~八戸~久慈~仙台)
◎12/9 東京(家内:旧友との再会、渋谷ストリーム(愚息の設計建築)
◎12/10 東京(旧友との再会、はじめて歌舞伎座へ)
12/7 新潟~酒田~秋田(日本海を北上:特急いなほ)
羽越本線の特急「いなほ」は「フレッシュひたち」で活躍していたE653系をリニューアルし、グレードアップさせて誕生した車両です。車体カラーは、日本海に沈む夕日に輝く波とあかね空をゆるやかな曲線で表現しています。2017年よりエクステリアデザインを瑠璃色、ハマナス色に変更してイメージを一新した編成も各一編成走行しています。一方客室内は、新たに2列+1列に座席を配したグリーン車を設けており、1820mmという広いシートピッチと前後の腰掛間を仕切ることでプライベート感を重視しつつ、ゆったりくつろげる空間を目指しています。今回は暴風雨のため、「いなほ」は酒田で止まり運休となる。そのため酒田より代行バスにて秋田へと向かうトラブルがありましたが、代行バス旅もまた楽しの心境で、秋田ではこの時季最高のごちそうである「きりたんぽ」と「高清水のお酒」をいただき身も心もほっこりできました。
12/7 久保田城(秋田佐竹藩)
久保田城は、秋田駅近くにあり、短時間で巡ることができる平城。常盤源氏の名門、佐竹氏12代の居城であり、複数の廓を備えた神明山の丘陵に築かれた平城。石垣がほとんどなく堀と土塁を巡らした城で、天守閣をはじめから造らなかった。幾度となく火災に見舞われその都度再建し明治まで残ったが、1880年(明治13年)の火災により大部分の建物は焼失。唯一の現存建物は御物頭御番所(二ノ門の開閉管理・城下警備・消火等を担当した足軽組頭の詰所)。本丸表門は2000年に再建され、また城内にあった八つの櫓のうち、本丸北西隅に位置していた見張りと武器庫としての役割を持った御隅櫓は市政100周年を記念して1989年に三重四階の模擬櫓(本来の姿は二重櫓だが展望室を設置)として復元された。現在は千秋公園として整備されている。
12/8 大雪の中、五能線で北上し厳寒の青森へ(秋田~青森)
五能線とは秋田県「東能代駅」と青森県「川部駅」間を結ぶJR路線のこと。全長は147.2km、43の駅間を走ります。日本ではローカル列車の旅ランキングなどでたびたび一位を獲るほどの人気です。魅力は車窓から望むことのできる美しい景観。日本の西側に広がる「日本海」と、世界自然遺産に登録された神秘的な「白神山地」の景色を満喫できます。五能線の旅をする上でオススメなのが、観光列車「リゾートしらかみ」。各地の名所で徐行運転してゆったり風景を楽しませてくれる上、車内で「津軽三味線」の演奏など東北地方の伝統芸能のショーを楽しむことができます(一部列車)。座席の窓は大きくとられており、天井には運転席からの眺めを常時映し出すモニターを設置。展望スペースも設置され、海側も山側も多彩な景色を眺めることができます。出会いはまさしく冬景色でした。でもこの季節も海の絶景を眺めるのも情緒があり素敵ですよ。
12/8 八戸城(南部信助)
八戸城は、現在の八戸市内丸に位置し、根城(八戸)南部氏が拠点としていた八戸根城とは全く別個の城郭である。
南部師行が八戸根城を築くのとほぼ同時に根城南部氏2代政長の三男・信助が根城の支城として築いたのが始まりとされ、築城時期・館の位置・規模については不明である。その後、この一族は中館(なかだて)氏を名乗り、居城は中館と呼ばれた。八戸は津軽領と接する要衝であったことから、南部利直は、寛永 4年(1627年)に根城(八戸)南部氏が遠野へ移封されると、中館氏もこれに従い、八戸は南部(盛岡)藩の直轄地として代官支配によって整備を行っていった。
八戸藩が分立されると、初代藩主である直好は名を直房と改め、新たに居城を築くことなく、三八城山に既にあった盛岡藩時代の建物を引き継いで、館を修築して八戸城として使い、家臣団の編成と城下町の整備に取り組んだ。
城郭は本丸と二の丸から構成される。現在は跡地に三八城神社、三八城公園がある。
八戸~久慈間はリゾートうみねこが走っております。また、「TOUHOKU EMOTION」と名付けられた列車は往路はランチコース付、復路はデザートブッフェ付として1日1往復運転しています。海の絶景を眺めて、食のサーカスを愉しみ、思わず手を振り返す。次回は「東北レストラン鉄道」に乗り込みたいものです。
12/8 八戸:思想家 安藤昌益と出会う!
安藤昌益の思想は、42歳頃から約15年間を過ごした八戸で誕生したといわれ、主著『自然真営道』101巻93冊も八戸で書かれたことが分かっています。そのきっかけとして考えられるのが、飢饉の頻発です。この地方特有の冷たい東風(やませ)により、当時の八戸では凶作と飢饉が猛威をふるっていました。中でも大豆生産のため焼き畑を繰り返したことで猪の大発生を招き、多くの餓死者を出した通称「猪飢渇」いのししけがじ(「けがじ」=八戸弁で「飢饉」の意味)は、昌益に大きな衝撃を与えたと思われます。刊本『自然真営道』「大序」には、「非命にして死せる者のためにこれを記す」、つまり、不幸にして天寿をまっとうできなかった人たちのためにこの書物を書くのだ、と書かれています。食物を生産する農民たちの多くが命を落とし、支配階級である武士たちには大きな被害がないという現実。この社会の矛盾を目の当たりにしたとき、昌益は、町人の身体を診る町医者から、社会全体を診る思想家へと変貌を遂げたのではないでしょうか。八戸で書き上げたとされる主著『自然真営道』には、昌益の思想が体系的に記述され、「大序」巻、24巻「法世物語」、25巻「良演哲論」では、厳しい社会批判が展開されています。
昌益は、武士が支配する封建社会を「法の世(ほうのよ)」として批判し、貧富の差も支配関係もない平等な社会を「自然の世(しぜんのよ)」と名付け、理想の社会として掲げています。自ら生産労働をせず搾取することを、「不耕貪食(ふこうどんしょく)」と称して批判し、その対極にある、自然の循環の中で自ら正しく農耕を行う生活を「直耕」と名付け、このような労働の中にこそ、人の人たるゆえんがあるという主張をこめました。
江戸時代に幕藩体制や身分制度を明確に否定したのは唯一昌益思想のみであり、しかも、江戸から遠く離れた八戸でこの著作が誕生したことに、大きな意義があり、この考え方は宮沢賢治にも通じているような気がします。
12/9 渋谷ストリームを眺めて!
家内はひとりで渋谷へ出陣。愚息の設計事務所で設計した渋谷ストリームを眺めてきました。渋谷は東京の若者文化の情報発信地であり、常に時代の先端を走り続けてきた街です。そんな渋谷の今は、複数の大規模再開発プロジェクトを通じ世界ナンバーワンの「エンタテイメントシティ」へとさらなる進化を遂げようとしています。
2017年4月28日(金)にオープンした「渋谷キャスト(SHIBUYA CAST.)」に続き、2018年9月13日(木)にオープンの「渋谷ストリーム(SHIBUYA STREAM)」・「渋谷ブリッジ(SHIBUYA BRIDGE)」。2019年、2020年更にその先も、エンタテイメントシティSHIBUYAへの架け橋となる聖地が次々に誕生しています。2018年9月13日(木)にオープンの「渋谷ストリーム(SHIBUYA STREAM)」は、旧東横線渋谷駅ホーム、線路跡地及びその周辺地区を再開発した大規模複合施設です。
地上35階、地下4階、高さ約180mある、渋谷ストリーム(SHIBUYA STREAM)のデザインは、渋谷のアクティビティが息づくように、縦長のホワイトパネルをランダムに配置している外観となっています。
渋谷の近未来を表象し、シンボルとして普遍的に輝くようにデザインされたオリジナリティあふれる外観は一度みたら忘れられないほどのインパクトです。
また、館内にはサイン機能と空間演出としてエスカレーターやエレベーターなどの導線を鮮やかなイエローでカラーリングしているのが特徴です。
渋谷ストリーム(SHIBUYA STREAM)の高層部、パネルファサードと呼ばれる部分は、縦長のホワイトパネルと窓をランダムに組み合わせたなんともめずらしいモザイク模様の壁面です。それは地表から空へとグラデーションにつながるデザインになっていて、これまでの建物では見たことのない壁面デザインが特徴です
12/10 歌舞伎座と「はとバス」お上りさん気分で散策!
歌舞伎という名称の由来は、「傾く」(かたむく)の古語にあたる「傾く」(かぶく)の連用形を名詞化した「かぶき」だといわれている。戦国時代の終わり頃から江戸時代の初頭にかけて京で流行した、派手な衣装や一風変わった異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも言った。
そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」が慶長年間(1596年 - 1615年)に京で一世を風靡し、これが今日に連なる伝統芸能「かぶき」の語源となっている。
「かぶき踊り」は主に女性が踊っていた事から、「歌舞する女」の意味で「歌舞姫」、「歌舞妃」、「歌舞妓」などの表記が用いられたが、江戸を通じて主に用いられたのは「歌舞妓」であった。現在用いられる「歌舞伎」の表記も江戸時代使われない事はなかったが、一般化したのは近代になってからである。なお江戸時代「歌舞伎」という名称は俗称であり、公的には「狂言」もしくは「狂言芝居」と呼ばれていたとのことです。
本日は幕見席(1幕:¥1200:80分程度)で鑑賞しました。初めての方、ちょっと見たい方、時間が限られた方などには、ちょうどよいのではないかと思います。私はAM11~PM2まで2幕を鑑賞しました。4Fではあるがリアルな雰囲気を味わえ、イヤフォンガイドを借りて鑑賞しました。いやあ面白かったです。そして鑑賞後、はとバスで皇居・迎賓館・表参道・渋谷・青山・東京タワー等を車窓から眺めながら、東京の広さ・大きさ・混雑の雰囲気を味わってきました。
⇓ 十二月大歌舞伎のパンフレット ⇓
終わりに
今回の旅行最終日は、東京駅丸の内南口の向かいにある日本郵便の「KITTEビル」の屋上から陽が沈みかけた東京駅をパチリ! いやあ--充実した小さな旅でした。これでほとんどの東日本エリアは征服したので、次回は西日本エリアに乗りこみたいと予定しております。どうぞ質問並びに感想をお寄せください。