■ 2020 小さな旅14 ■
12/14 前川本城跡(川崎町)の歴史探訪!!!
宮城県南部、奥羽山脈東麓の山村である柴田郡川崎町。その町域南部に川崎要害の館下町で笹谷街道の中心宿駅川崎宿があった旧前川村(現川崎町前川)があり、村内を東流する立野(轟)川と前川の合流点西側には、戦国期にこの地を治めた砂金氏の居城、中の内城(前川本城)があります。
≪ 歴 史 ≫
・前九年の役(1056~)の時、安倍貞任が精鋭4000と川崎柵によって戦う。この柵を地名から中ノ内城とした。
・戦国末期1573年(天正1年)砂金(いさご)氏8代常久が築城。11代常房が川崎城に移転(1609年)するまで居住。(36年間)
・笹谷街道と羽前街道に接し、交通の要所であり、山形最上氏、米沢上杉氏と隣接しており伊達氏にとって重要な防衛拠点であった。
≪ 特 徴 ≫
・中世連郭式山城、東西南北ともに200m、本丸、二の丸と大規模な土塁と空堀で馬出曲輪を構え、そこに内枡形を二つ重ねてつけた異様なほど技巧的な虎口をもつ。
・砂金氏(1500石程)の動員人数に対して曲輪が広すぎるため、関ケ原の頃に上杉対策に増援を考え、外曲輪(作りが戦国時代・伊達政宗時代では)を増設したのではと考えられる。※3000人位が籠れる二の丸
・連郭枡形周辺に石積み(野面積みの石垣)が残っている。
・かなり本格的な山城で、現在でも破壊されず遺構がしっかり残っている。特に三重に連なる壮大な土塁と技巧的な虎口は「土の芸術」である。城下町として山形自動車道工事に関わる調査で分かった城下町「本屋敷」遺跡(防御性をもった町割りで外曲輪の可能性もある)と関ケ原前という歴史的背景・街道沿いと近隣有力大名との確執という地理的背景から歴史的に重要な価値があると思われる。
≪本屋敷遺跡≫中世屋敷割(陶磁器・刀装具・古銭・石臼)
発掘調査の結果、16世紀後半の集落跡で東端と西端に空堀が設けられるなど、集落全体が防御施設で囲まれた「町曲輪」の可能性が高い。
前川本城の主郭は、東西七〇㍍、南北六〇㍍ほどの方形の平場で、城の北辺は立野川に向かう急崖、残る三辺を土塁が取り囲んでいます。また、尾根へと続く西側は幅一五㍍以上の二重の空堀が築かれ、大手筋である東側は馬出状の郭、内側には枡形を設けた虎口が配され、付近には石積遺構も残されています。
慶長五年(1600)慶長出羽合戦の際、山形の最上勢を救援すべく伊達政宗は援軍を派遣。その総大将であった留守政景らはこの中の内城に宿陣しました。馬上四二〇、長柄八五〇、弓二五〇、鉄砲一二〇〇、その他総勢二七二〇名以上の軍勢で、中の内城主砂金実常も馬上三十騎を率いて此処から出陣しました。