■2022 活動日誌10月■
季節の日々の移ろい、自然の中で感じたこと、後世へ伝えたいことなどを思ったままに綴りました。皆さんのコメントをお寄せください。
2022年10月31日 晴れ
干し柿のすだれの季節がやってきた!
我が家の蜂谷柿も色づきはじめ、今週末あたりには赤く熟してくるのではないかと思う。枝がたわむほど実をつけた柿の木は、まさしく実りの秋そして収穫の秋を感じさせてくれる。壺井栄(1899~1967年)の「柿の木のある家」は、少年と叔父の交流を軸に昭和初期の温かく密な親族関係を描いた中編小説がある。大きくておいしい実をつける柿の木が、少年の家の暮らしを世代を超えて見守る。家人の最期であったり新たな命の誕生の瞬間であったり。作中、この木が葉を落とす理由の推量がほほ笑ましい。柿の木は子どもたちの活発な姿などを見るのが楽しくて人には分からぬ声で笑うことがあり、その弾みで葉が散るのかもしれないと壺井さんは書いている。周辺では人口減少の現代では実をもぐ人もなく放置された孤独な柿の木が目立つのはなぜかさみしい。干し柿のすだれがまさしく秋の風物詩となり、冬の季節、暖炉で干し柿を頬ばる光景を思い出すとともに楽しみでもある。柿の利用として天然塗料の柿渋に有効活用する手もある。未熟な実を収穫し砕いて漬け込むらしいかどんなものか、そして板材の塗料として活用していきたいと考えている。
2022年10月26日 晴れ
グラデーション
「グラデーション」は明暗や色調が少しずつ変わっている状態をいう。今の季節、山から里は紅葉のグラデーションのようで鮮やかで心がなごんでくる。絵画や写真、映像などにとどまらず、物事の段階的な変化も表している。さまざまな調査では「賛成」「反対」とともに「どちらとも言えない」という選択肢がある。世の中の出来事に対して、賛否が明確に分かれるケースは意外に少なく、二つの選択肢の間にはグラデーションのようにいろんな思いがある。「どちらとも言えない」の中身は複雑で、優柔不断で判断ができないわけではない。「芸術と命、どっちが大事だ?」。ロンドンの美術館でゴッホの「ひまわり」にトマトスープとみられる液体をかけた女性2人が逮捕され、そのうちの1人がそう叫んだという。女性たちは環境活動家で、石油の利用をやめるように訴えるTシャツを着ていた。最近は「サステナブル」という言葉をよく見聞きする。「持続可能な」という意味で、環境負荷の軽減などを意識した「サステナブルな暮らし」はこれからの重要な視点になる。石油や石炭など化石燃料の利用は減らしていくべきかと問われたら「賛成」を選ぶが、だからといってすぐにやめるのが現実的とは思わない。物事に対してはグラデーションがあり、二者択一では片付けられない問題にどう向き合っていくか知恵の出しどころである。
2022年10月23日 晴れ/曇/一時大雨
収穫祭・芋煮会のコミュニケーションは楽し
きのうはテレビの天気予報を見ていて気象予報士の言葉に虚を突かれた。きょうは「西高東低」の気圧配置になるという。日本列島の西に高気圧、東に低気圧が位置し、寒さや荒れた天気をもたらす、言わずと知れた冬型である。もう冬支度の時季なのかと身構えた次第である。10月上旬の県内の天気は夏と晩秋が同居していた。各地で最高気温が25度を超える夏日となった数日後、寒気が流れ込んだ。目まぐるしくお天気も変わってきている。このところ秋が短く感じられる。気がつけば、紅葉は山から里へと降り、家のまわりで見かける街路樹や民家の木々も色づき始めた。もとより秋の空は不安定だが、寒暖の差が激しい日が続き、足早に冬に向かうのだろうか。そんな中、連日、収穫祭(青根地区)や芋煮会(泉スプリングバレースキー場)に参加した。秋空の中で色づいた紅葉を見ながら開放感もあり、食、そしてお酒もすすむ。なぜか気心しれた連中と話しながらの、たわいもない話ではあるが、この瞬間のコミュニケーションがなぜか楽しい。そして心身共にリフレッシュされる。気象庁によると、冬型の気圧配置の影響を強めるラニーニャ現象が、この冬も継続する可能性が高く、どうやら寒くなりそうである。頭が痛いのは暖房費、ことに高値が続く灯油価格である。家計の負担増を考え、節約のために寒さを我慢しすぎて体調を崩しては元も子もない。しっかりと体を温めて、この冬を乗り切りたいものである。
2022年10月17日 曇
食料供給の安定化にどう道筋をたてるのか!
この季節、車で通りかかる仙台市郊外の田んぼが、いつの間にか丈の長い草や木、そして外来種の鮮やかな黄色のセイダカアワダチソウに覆われている。所有者が耕作をやめてしまったのだろうか。春には水が張られ、そよそよと風に揺れていた苗が育ち、やがて一面を緑から黄金色へと変える様子に癒やされていたのに残念でもある。宅地開発や道路工事の影響もあるのだろうか。広く周辺を見渡しても春に水を張る田んぼは年々減っている。肥料などが高騰し、後を継ぐ担い手もいなければ「自分の代で終わり」といった声が聞こえてきそうな風景でもある。それも仕方がないことかと少し前なら思っていたが、最近は危機感を覚える。ロシアによるウクライナ侵攻などの影響で、小麦などの穀物や肥料を輸入に依存する危うさが浮き彫りになったからだ。気候変動のリスクも高まっている。国は農政の基本方針となる食料・農業・農村基本法の見直しに着手した。自国民の食を確保する食料安全保障を強化するという。日本の農政は輸出振興や大規模化といった成長力強化に軸足が置かれてきた一方、担い手や農地の減少は進み、食料自給率は38%と低迷したままだ。食料供給の安定化にどう道筋を付けるのか。荒れた田んぼはすぐ元に戻らないし、継承が途絶えた生産技術を取り戻すのも容易ではないだろう。今年の新米の「つや姫」をかみしめながら思いをはせてみた。
2022年10月14日 曇
旅に出かけたくなるは人間の性だから?
芭蕉が「奥の細道」の旅をしたのは1689年。約5カ月かけて2千キロを超える行程を歩いた。その5年後、最後の旅に出て、旧暦では10月12日、51年の生涯を閉じた。〈旅に病(や)んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る〉は、芭蕉最後の句として知られる。「漂泊の俳諧師」らしい一句と思う。「月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり」―。松尾芭蕉の『奥の細道』の書き出しだ。芭蕉に限らず、西行や種田山頭火ら生涯旅を続けた文人は多い。人はなぜ、旅に出るのか。「それは人間の性(さが)だから」ではないだろうか。旅の実現に必要なものは道具を生み出す知恵、情報ネットワーク、好奇心。人類はこの三つを備えているという。この2年、コロナ禍で遠出をしていない人も多かったはずである。11日より国内観光振興事業「全国旅行支援」が始まった。コロナの水際対策も緩和され、訪日客も一気に増えているという。この数日、急に寒くなってきた。旅は人の性としても、体調が伴ってこそである。加齢と体力に応じた旅を無理なく楽しみたいと思う。
2022年10月8日 曇/晴れ
「先生」とつい呼んでしまうが。。。
身近に「先生」とついつい呼んでしまう。「先生」いう敬称は学校の教師だけでなく、医師や弁護士など、いろんな職業の人に使われる。辞書には職業にかかわらず「親しみ、またはからかって呼ぶ称」ともあるが、その区別は人によって異なるからやっかいである。「先生と呼んでおけば機嫌を取れたのに…」と思っている人も多いかもしれない。〈先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし〉。おだてているつもりの者を制する言葉だが、おだてに気づかず勘違いしている政治家の先生はたくさんいる。先生は学徳に優れた人などに対する尊敬を込めた呼称。自然に「先生」と呼びたくなる人が指導的役割を果たすなら、社会はよくなるはずである。国でも地方でも、信頼できる先生たちに頑張ってもらわなければと思っている。臨時国会も開幕した。冒頭の所信表明演説で、岸田首相は経済政策に大半を割き、「日本経済の再生が最優先の課題だ」と強調した。国内外の難題に取り組むには、時には国民に厳しい負担を強いることもある。そのために政治には国民の理解と支持が不可欠だ。だが、岸田文雄首相の演説からは、内閣支持率の急落に表れている政治への不信を払拭しようという決意は伝わってこなかった。この国会でまず取り組まなければならないのは失った信頼の回復ではないか。首相が自民党総裁選に出馬した際の言葉は「国民の間には政治が信頼できないという声が満ちあふれている。民主主義が危機にひんしている」だった。今、岸田政権も同じ状況に陥っているのではないか。初心に立ち返り真の先生と呼べるようになってほしいものである。
2022年10月5日 曇
おのが葉に月おぼろなり竹の春(与謝蕪村)
国葬にモヤモヤした日々が続いた。嫌韓感情を扇動し、「慰安婦」問題への無関心と無知を公然にし、被害者を幾度も絶望に追いやった。ジェンダー平等政策を骨抜きにした。貧富の差を激しくし、持つ者だけがより持てる社会になった。汚染水はコントロールされているとして五輪を誘致した。森友・加計、桜を見る会など、権力と金を巡る問題を起こしたにもかかわらず責任は一切取らず、自死者まで出した。沖縄を見捨て、辺野古埋め立てを強行した。そして山上容疑者のように、被害者が無数にいると指摘されていたにもかかわらず、旧統一教会にお墨付きを与え続けてきた。国葬で流れた動画では、安倍さんが「(過去の戦争に関係のない未来の日本人に)謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と言っている姿が「良きこと」のように描かれていたが、安倍さん自身が過去の加害を謝らず、歴史を忘却し修正することを臆面もなくしてきた。そしてそんな安倍さんに対し、メディアは萎縮し続けてきた。超高齢化社会において葬儀は巨大産業でもあるが、今の時代、できるだけ迷惑をかけず、できるだけ自己責任で……と思いながら、やっと秋たけなわの10月に入った。近年は夏が長く、春と秋を短く感じるが、それでもまだ日本の四季は鮮明だ。この国に生まれてよかった。「暑さ寒さも彼岸まで」。過ごしやすい秋がやってきた。与謝蕪村に〈おのが葉に月おぼろなり竹の春〉という句がある。竹の四季は独特だ。春、親竹はタケノコに養分を回し、葉が枯れ散る。タケノコは夏に成長し、多くの植物が落葉する秋に立派な竹となる。親竹も秋に青々と葉を茂らせる。このため、季語では「竹の秋」が春、「竹の春」が秋になる。蕪村の句は、きれいに見えるはずの月が茂った竹の葉に隠れ、おぼろ月のように見える情景を詠んだ句を思い浮かべている。。。。。