2019活動日誌3月
季節の日々の移ろい、自然の中で感じたこと、後世へ伝えたいことなどを思ったままに綴りました。皆さんのコメントをお寄せください。
2019年3月28日 曇り 9℃
桜開花と平行しながら黄色ナンバーが走り始めました!
年度末は何かといそがしい。軽ワゴン車(ダイハツアトレーワゴン)の名義変更のため「うみの杜水族館」の近くにある軽自動車検査協会を訪れた。混む時期でもあるので、事前にネットでダウンロードした用紙に記入していったので、すぐに終わるだろうと思っていた。ところが、9時30分に受付をして、完了は11時30分と2時間近くかかったことになる。今までは車屋さんにすべてお願いしていたが、今回は選定、交渉、購入、引き取り、整備、手続き等すべて一人でやってみたが、結構大変であることが、よくわかった。新たな黄色のナンバープレートを付けていると、ラジオから桜開花の話題やニュースが流れてくる。季節の移ろいを表す七十二候の一つに「桜始開(はじめてひらく)」がある。各地から桜だよりが届きはじめている。仙台・川崎でも、もうじき開花宣言が出されるだろう。今年は暖冬で去年より桜も早く咲くに違いないと思う。わたしは桜の中でシダレザクラが好きで、風の中を揺れながら流ちょうに舞う姿にはうっとりさせられる。ソメイヨシノとは違い、シダレザクラやヤマザクラといった伝統種こそ日本の風景に溶け込み、似合うのではないだろうか。春暖は一進一退ながら桜はもうすぐ。やきもきさせられても確かに待ち遠しい。らんまんと咲き誇る花王を今年もしっかりと目に焼き付けたい。ウキウキしながら、新たな軽ワゴン車の楽しさを味わいながら川崎へと向かった。
2019年3月22日 曇り 11℃
引き際の美学について考える!
いよいよイチローが引退する。自分の美学をもって引き際を考え決断した。かつて、マウンドに立つと、右打者のホームベース外角ぎりぎりの所に、投げ込む目標となるきらきらとした光の線が見える。その線が見えなくなったら引退しようと投手として阪神など数球団を渡り歩き、大リーグにも挑戦した江夏豊さんは、引き際の美学を考えていたという。アスリートらしい明快な出処進退の決め方でもある。こちらは東京五輪招致疑惑に絡み、日本オリンピック委員会(JOC)の会長を退く意向を表明した竹田恒和氏も引き際への思いはあったろう。イメージ悪化を憂慮して即座の辞任を求める大会関係者の意見は強かったが、6月の任期満了をもって退任するとした。竹田氏は一貫して潔白を主張しており、引き際の美学は貫いたつもりなのかもしれないが、JOCでは役員の定年規定「選任時70歳未満」を改定してまで竹田体制を維持しようとするなど、強引なやり方も目立った。旧皇族の出身で、馬術選手として2度の五輪に出場するなど輝かしい経歴を持つ人だが、2001年から10期という会長期間はあまりにも長いような気がする。惜しまれつつ身を引くこと、引き際が大事とされる。ルールを変えてまで権力にしがみつく高齢老害の政治家も引き際のタイミングを忘れないでほしいと思う。
⇓タイヤ交換も完了いたしました。東京では桜も開花し、仙台は4/1とのこと⇒楽しみです!
2019年3月18日 晴れ/曇り 12℃
お彼岸の入り
通勤途中、自転車に乗っていると春の訪れを風で感じる。風向きにも繊細な先人の感覚は季語に残っている。南風の春一番や東風(こち)、西風は貝寄風(かいよせ)、仏教にちなむ涅槃(ねはん)(彼岸)西風(にし)。春分の日を中日として前後3日間、寺の彼岸会や墓参の光景に会う。彼岸は現実の世界に対し、悟りの世界(西方浄土)のこと。そこに至る方法を説いた仏教の事柄が中国で先祖供養と結びつき、日本では具体的な行事になったと言われている。この時節、亡き人への思いはより強くなる。あの日から8年が過ぎた東日本大震災である。最愛の人を失った被災者の心の奥は今もうずいているのではないだろうか。先日の講演会で批評家若松英輔さんは寄り添う。「悲しみは死者を傍らに感じている合図。悲しみこそがその存在を保証する」。亡き人との「共生」を語り、そっと後押しする。自身もがんで妻を失くし、古今の哲学者や万葉歌人らの文言を頼りに思い至った。若松さんの言葉は重く、思索は深い。震災前、テノール歌手による曲「千の風になって」が大ヒットし、今も歌い継がれている。肌に触れる風で亡き人を思う―。そんな願いが共感を呼んだのだろうか。墓前でしのぶような形ではないが、その心は同じ。故人との縁に支えられていると思う。彼岸を迎えて、我が家でもお墓参りに行って、きちんと手をあわせてきたいと思う。
2019年3月14日 晴れ/曇り 11℃
「なあなあ」⇒英語にはない日本語の独特の言い回し!
最近、仕事の会議に出席することが多く、その中で日本語には英語にない独特の言い回しや微妙なニュアンスを持つ表現があることに改めて気づき始めた。確かに文化や歴史の違いもあって、外国人に説明するにもなかなか難しい言葉が多い。まずは「なあなあ」である。念のため解説すれば、互いの主張を適当なところで折り合いを付けること。「なれ合い」の意味で使われる。適当にそれなり済ませ、汗水かかない体質がすけて見えてくる。もとは歌舞伎が由来であるらしい。役者同士が耳元でひそひそと内緒話をする場面。片方が「なあ」と呼びかけると、相方も「なあ」と返事する。実は口パクだが、いかにも意思疎通を図ったように見える。毎月勤労統計に続き、賃金構造基本統計の不正が発覚した厚生労働省に対し、総務省は長年にわたる不正は「事なかれ主義のまん延」「順法意識の欠如」が原因と指弾した。調査員が訪問せず郵送で済ませたり、対象業種を省略したり手抜きが横行している。その実態を10年以上前から認識しながら、ほったらかしとはお粗末の限りで、これが公務員の姿と思うと情けなくなる。先の「英語にない―」は、「なあなあ」は単に「妥協」の意味だけでなく、集団性を重んじる日本的な感覚が潜んでいるのではないだろうか。一連の統計不正に、国民生活より組織維持を大事にする保身的な感覚の土壌が潜んでいるような気がする。
2019年3月11日 小雨 8℃(あれから8年の3.11を迎えて)
3.11 亡き人の声に耳をすましてみたい!
最近、朝方3時には目が覚め、そのまま眠れないような夜、ラジオに耳を傾けることが増えてきた。これも齢のせいだとは思うが。。。最近は、インターネット経由のラジオ放送をスマホで聞くことができ、音質も安定し放送済みの番組も楽しめる。名作文学の朗読や懐かしい音楽。落ち着いたアナウンサーの声を聞いているうちに、再び寝入ることもある。ラジオがとりわけ力を発揮するのは災害時。東日本大震災が発生した8年前のきょう、懐中電灯の明かりと石油ストーブの火が頼りの薄暗い支局で、ラジオにすがりつきながら夜を過ごしたことを思い出す。情報が途絶し、被害の全容が見えない中、太平洋沿岸の集落が津波で壊滅状態などという情報が、緊迫した声で伝えられたときは耳を疑った。「心配しています。連絡ください」。次々と流れる安否情報に胸がつぶれる思いがした。死者1万5千人超、2500人超が依然として行方不明という。残された家族らにとって、どんな月日が流れただろう。時間とともに深まる悲しみもあるだろう。3.11の追悼会で政治家が美辞麗句の言葉ばかり並べた、空虚な「思いを寄せて」「真摯に寄り添って」「弱い人の声に耳を傾て」の文言をよく聞く。この時ばかりの言葉に納得する人がいるのだろうか。特に福島原発の被災者の声を聴かず、原発再稼働、原発の海外輸出を熱心に進める政府。地震・津波・原発で死んだ人々の声が聞こえるのだろうか。突然命を絶たれ、どんな思いでいるか、今どこにいるか、残された人に古里に、何を望んでいるだろうか。鎮魂の日。亡き人の声に周波数を合わせ、耳をすましてみたい。
2019年3月5日 晴れ 8℃
フクジュソウの黄色の花が咲き始めた!
夕方、街なかで残照の中を自転車で帰宅した。ちょっと前までは暗くなるのがもっと早かった気がするが、だんだん、日没は連日1分程度遅くなり、もう5時半を過ぎている。そして春の訪れが我が家の庭にきたようだ。植物は冬の装いから変わりつつあり、今日、出勤前、華やかな黄色が目に入ったのに驚いた。フクジュソウの花が開いている。何日か前までは、地面の少し上に頭をもたげた蕾の先から花びらの先端が覗いている程度だった。ここにも、いよいよ春が近づいているのを感じる。フクジュソウは本当は「北の国の雪どけの丘のスロープ」で「天の光を浴びたいものである」。北国なればなおさら、春の先駆けに心浮き立つ気分でもある。でも残念なのは“おまけ”もあること。くしゃみや目のかゆみが、もう始まったようだ。今年は花粉症が蔓延しており、こちらの春はちと困っている。修理したばかりのクロスバイクの自転車で街並みを走ると、なぜか口笛をふきたくなるような軽やかな気分になる。やはり、近距離は自転車に限ると実感している。そしてもうひとつ。やはり田舎暮らしでは軽トラック(軽ワゴン車)は欠かせないと実感しはじめ、一度、手放してしまったが再び中古を探し始めた。街中、田舎ではやはりおなじみの活動道具がないとシックリいかず、不便でもある。ここにも明るい春?がきたような気がする。
2019年3月4日 小雨/曇り 7℃
怒鳴門(キーンドナルド)さんの訃報を受けて!
最近、アルバイト感覚でお手伝いしている仕事がいそがしく、日々、仕事に追われるようになり活動日誌もだいぶおろそかになってしまった。そんな中、ドナルド・キーンさん、いや鬼怒鳴門(キーンドナルド)さんが亡くなった訃報を受けて愕然とした。日本文学研究者というだけにとどまらず、米国生まれの日本人と評したい人だった。東日本大震災後に永住し、日本国籍を得たのは89歳のときである。芭蕉の「奥の細道」を実際にたどり、心のふるさととして慕った東北にエールを送りつづけた。まさしく、晩年は実際にも日本人だった。ニューヨークの家を引き払って東京に住み、日本人男性を養子に迎えた。どうしてそれほどまでに肩入れしたんだろう。エッセー集「二つの母国に生きて」(朝日文庫)の一文に「日本にいるときのほうが、私自身幸せな気持ち」になれるとあった。感じ方がそもそも近かったのだろうか。例えば新年の迎え方。「空気は清浄だし、人々の着ているものもとても美しい。大きな神社や寺には善男善女が集まってくる」と喜んだ。そんなときには率直な米国人の顔ものぞいた。日本人以上に日本を愛し、日本の良さを理解しようとする姿勢はぜひとも見習わなければならないと思う。偉大な足跡は「百代(はくたい)の過客(かかく)」(永遠の旅人)となって世に残ると思う。でもやはり、その人のいない日本は寂しい。私自身もきちんと日本と向き合って生きていきたいと思う。