2018活動日誌 3月
季節の日々の移ろい、自然の中で感じたこと、後世へ伝えたいことなどを思ったままに綴りました。皆さんのコメントをお寄せください。
2018年3月28日 晴れ 22℃
踏まれても踏まれてもなお生きるーオオバコ
踏まれても踏まれてもなお生きる―。これが雑草のイメージだとすれば、代表格はオオバコではないだろうか。田舎道の傍らでよく見かけ、平べったく広がる葉が特徴である。年配者は記憶にあるのではないだろうか。子どものころ、花茎を二つ折りにして互いに引っ張り合う草相撲で遊んだことを。だから地方によってスモウトリグサとも呼んでいた。オオバコは漢字で「大葉子」と書く。この大きな葉が柔らかさと硬さを併せ持つ。柔らかさは衝撃を吸収する一方、葉の中を通る丈夫な筋は耐久性を高めるらしい。ゆえんそして踏まれることに耐え忍んでいるようにもみえる、オオバコは踏まれることを利用し、逆境の環境をむしろプラスに捉え、道路沿いでたくましく育っている。歳時記では夏の季語ではあるが、入進学など春の転機のシーズンでもあるのでこの雑草を思い出す。新天地に飛び立つ今、待ち受ける厳しさにばかり目が行く。それを乗り越えるエネルギーを思うと気は重くなる。しかし逆境は自分を大きく育てる栄養と考えたい。踏まれても強く生きるオオバコが好例ではなかろうか。今年は春の天気が続いたせいもあるかもしれないが、今日は朝早くからジャガイモの定植を行った。踏まれても踏まれても丈夫にたくましくオオバコのように生育してほしいものである。そしてやっとクリスマスローズや水仙等の花々も春の光を受けて輝きはじめた。
2018年3月26日 晴れ 17℃
自然の造化の妙につくづく感心する季節である!
頬を触れる風が生暖かい。「暑さ寒さも彼岸まで」のたとえ通り、雪国もぐんと春めいてきた。近くの公園では、風に乗って子どもたちの歓声が響き渡るようになった。雪の消えた公園の一角で、キャッチボールをする姿も見られる。久々に握るボールやグラブの感触がうれしそうにも見える。ファーム耕運並びにジャガイモ畝つくりも終わりホットしているところに電話が鳴り響く。薪を処分したいので、欲しいなら取りに来てほしいとの連絡。まだまだ丸太薪割も終わらず在庫もあるが、とりあえずとりにいくこととした。最近、周りでは処分、廃棄等の言葉をよく聞こえるようになってきた。体のいうことが効くうちに整理したいとの声を聴くようになってきた。自分の身に置き換えてみると考えることもあるが、最近はあまり考えないようにしている。軽トラのラジオからは甲子園での選抜高校野球が開幕し、春の球音が鳴り響いている。まさに球春到来の時季でもある。<春風やまりを投げたき草の原>と詠んでいる正岡子規。現在はサッカー人気に押され気味とはいえ、子規をも虜にした野球だ。球児やファンの胸は高鳴る。春は程なく、子鹿のすむ山も覆い、遠目にはぼんやりとしていた木々も、やがて生気を取り戻す。楽しみは春。厳しい冬あってこその春。自然の造化の妙に、つくづく感心する季節である。この3日間はファーム掘り払い、ファーム草取り・耕運。畝たて、そして今日も家内と二人で薪の積み込み、運搬と肉体労働に明け暮れた3日間であった。今日はゆっくりと風呂につかり、おいしい晩酌を楽しみたいと思う。
2018年3月23日 晴れ 13℃
春はなぜか言葉の力が試される季節でもある!
弥生3月は「桃」にまつわる語が多い。たとえば「桃花水(とうかすい)」。梅につづいて桃の花が咲くころ、雪解けで増した川の水をいう。谷川の流れにも春は香ってくる。たとえば「桃始笑(ももはじめてさく)」。季節を細かく分けた七十二候のひとつで、ちょうどきのうあたりまでがそれにあたる。そんな陽気に誘われ、ちょっと早いかなと思ったが、思い切って車2台分のタイヤ交換を行うこととした。明日からはしばらくお天気の良い日が続くようで、そして気温も高そうである。東京では桜満開。春は、言葉の力が試される季節でもある。進学、就職、異動、退職。出会いと別れ、それぞれの悲喜こもごもに「気の利いた言葉は…」と探してみるほどに、言葉は難しいものだとつくづく思う。単刀直入なもの言いが必ずしも良いわけではない。時に誤解を招く。例え話も的を外せばしらけたムードに。先輩風を吹かす人生訓も当然、御法度だ。最近は過去の失敗談も「だからなんですか?」と、素通りされてしまうことも多い。特に平成世代には。上から目線に対するアレルギーなのだろう。毎年この時季、自らの言葉の引き出しの乏しさを感じる。でも自然体で若者とのコミュケーションを楽しむことが一番であると思う。
2018年3月21日(春分の日) 曇り/雨 9℃
政治が教育現場に介入していることに憂慮を覚える!
ものには釣り合いがある。もし講師の選任が不適当というのなら、まずは保護者が学校に文句を言う、市教委が校長に説明を求める、せいぜいがその程度の話ではないだろうか。たとえ講師が何かと注目される前川喜平前事務次官だとしても、文部科学省が直々、乗り出すほどのことか。名古屋の一市立中学であった一度きりの授業の経緯を詳しく調べ、どれほどの益があるんだろう。隠された意図があるのでは、と邪推されたり、不当な介入だ、と批判されたりするのが落ちで、実際にその通りの展開となっている。事前、事後とも、保護者や生徒から否定的な反応がないという中、今回の対応には違和感が大ありだ。市教委が公表したメールのやりとりからは、文科省の不快感も透けて見える。「出会い系バー」報道も挙げ、招いた理由を「具体的かつ詳細に」報告するようにと、いかにも問題があったと言わんばかりに求めているけれど、校長の回答はさすがに教育者らしい。「私が感じた前川さんの人となりから判断した」。霞が関のお役人より立派な姿勢で感心してしまう。授業に関し、自民党議員2人から複数回照会があったことが判明した。文科省は当初は我々の判断としていたが、結局は関与があり嘘をついたことになる。あきれたことにその影響を否定しているが、それなら問い合わせた理由を「具体的かつ詳細に」説明する必要がある。道徳教育が行われる学校の場での出来事だ。生徒たちに恥じることのない弁明ができるはず。でなければ、おかしい。政治の介入が身近なところにも及んでいるこの現実を我々は見逃すわけにはいかない。
2018年3月20日 晴れ 8℃
行きつ戻りつだからこそ、春本番が待ち遠しい!
句を数多く残した正岡子規に風変わりなこんな一句がある。<毎年よ彼岸の入(いり)に寒いのは>-1893(明治26)年春の作である。あすは彼岸の中日。早咲きで知られるカワヅザクラが見頃と思いきや、ソメイヨシノもここ数日来の暖かさに誘われて一気につぼみを膨らませた。全国一は今年は高知で開花宣言。そして桜前線は東京にも彼岸の入りと同じく18日には到達している。開花時期は年々早まる傾向とはいえ、少々せわしない。開花には「休眠打破」が欠かせない。今冬はラニーニャ現象で冷え込みが厳しく、休眠していた花芽の目覚めを早め、加えて突然の陽気がつぼみの生育をせかしているようだ。子規は桜にちなむ句もよく詠んでいる。<これはこれはあちらこちらの初桜>は、感じたままを五七五に写し取っている。我が家の悠々梅林でもやっと数輪、花が咲き始めた。そして昨日から始めたファーム起こしも今日で何とか完了しホットしている。終わった後の達成感かもしれないが、夕食時の晩酌がおいしい。この先、寒の戻りがあり、すぐさま春を迎えてしまうのを許さないかもしれない。でも行きつ戻りつだからこそ春本番が待ち遠しいものである。
2018年3月19日 曇り 16℃
光の春が始まった!
桐一葉が落ちるのを見て秋を知ることはあっても、季節の移ろいはまず目にさやかには見えない。この春は数少ない例外の一つで、真っ白な平原だった田んぼも、みるみる黒ずんできた。ファーム起こしを家内と始めた。落ち葉の堆肥をファームに撒きながら管理機で耕す。ミミズをはじめとして寒さが緩み地中の虫がはい出てくる。今年はぬかるみもあまりなく、苦にもならない。ここ1カ月ほどの格闘は白昼に見た夢かと、一気の雪解けにあきれながらも心が弾んでしまう。「光の春」という言葉を広めたのは、元気象キャスターの故倉嶋厚さんだ。気温はまだ冬のままだけれど、光だけは確実に明るい。そんな時期がやってきた。でも今年は無理しないで、楽しんでファーム作業をやろうと語り合う。ファーム耕運は半分で切り上げた。明日もまた、さわやかな春の風を受けながらやろう。永田町では降り注ぐ光が足りないのか、薮の中の森友学園問題で国会が揺れ動いている。森友学園文書改ざんの渦中の人、財務省の佐川宣寿元理財局長もまたひたすら「滅私奉公」を貫き、国有地売却を巡る批判の矢面に立ってきた。政権の盾となり頑張り、官僚も辞職した。その揚げ句自分が証人喚問に呼び出される雲行き。見えない所で骨を折り舞を披露しても結局は認められない。「陰の舞の奉公」だったと思い悔やんでいるのではないだろうか。私も現役サラリーマン時代が思い出される。霞が関の中央官庁を駆けずり回ったIT営業時代。今なつかしく思う。あわただしく各省の部屋を出入りしたことが、なぜか思い浮かぶ。佐川さん!そんなにもう無理しないでと声をかけたいが。。。
2018年3月15日 晴れ 18℃
北の桜守が春色に染めている!
気温が18度まで上昇し、まさしく春を迎えた気分にさせてくれるような陽気である。お天気のよいうちにとアウトドア作業に連日大忙しである。ゴミ焼却のドラム缶破損に伴い、ブロックで組み立てたり、廃材等で棚や簡易机を作ったりと、計画性はないが工夫しなが、その場所にあった適当なサイズで作っているが、なぜか楽しい。バックグランドで聞いているラジオの音楽も心を春の色に染めてくれるような気がする。ファーム起こし前に廃材を利用して大工作業をやってしまおうといそがしく動き回っている。ところで「桜守(さくらもり)」と呼ばれる人たちがいる。桜は、決して強い樹ではない。桜守は桜の命を支え続け、満開の春を届ける。吉永小百合さんの120本目の出演映画「北の桜守」が公開中だ。1945年、日本領だった南樺太(現サハリン)には多くの日本人が暮らしていたが、終戦の8月15日を過ぎても、ここでは戦争は終わらない。旧ソ連軍の侵攻で逃げ惑い、吉永さん演じる主人公も息子たちと、大泊港(現コルサコフ港)から脱出を図る。昨秋、その港町は、日本時代の銀行や赤レンガ倉庫がそのまま残っている。その中でユジノサハリンスクの博物館では、置き去りにされた梵鐘や位牌、剣道具が並び、町案内の地図には「江戸っ子食堂」「乙女だんご」など日本の屋号が読み取れる。吉永さんは「桜の時期には生きている喜びを感じる。この映画を撮って、きっと今年は今まで以上でしょう」と語っていた。息子役の堺雅人さんも「教科書ではほんの1行か、2行の事件が、これだけの物語になった」。引き揚げ者の思いを、しっかり込めたという自負がにじんでいる。私も映画を見ながらと桜の旅にでたいなあと、陽気に誘われてふらりと出かけてみようか。
2018年3月13日 晴れ 16℃
佐川さん 人としての矜持の大切さを忘れないでほしい!
福島県の春。花の季節はまだ早いが、待たれるのは、三春町の「三春滝桜」の開花だ。日本三大桜の一つでもある。夜空に浮かび上がる、新しい観光ポスターができたとのニュースを耳にする。「三春へ」「三春で」「瀧櫻(たきざくら)よ」の3種だ。揮ごうしたのは、地元の福聚寺住職で芥川賞作家の玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)さん。今年もぜひとも訪れてみたい。今、新聞、TVワイドショーでは森友学園に関する文書に書き換えがあったとニュースが独り占めしている。財務省がようやく文書の書き換えを認めた。昨年5月、原本から「本件の特殊性」といった記述を消して国会に出したのだという。佐川宣寿前国税庁長官は皮肉にも福島のいわき出身である。国会答弁との関係で誤解を招かないよう、理財局の一部が指示した。悪いのは役人―。そうしたシナリオで幕が引けると麻生さんは考えているのだろうか。公文書の書き換えは犯罪に当たる。まして国会に提出する文書である。果たして、役所だけでそんな大それたことができるものなのか。仮にそうだとしても、麻生太郎財務相らの任命責任は免れまい。文書からは、安倍昭恵首相夫人や政治家の名前も消えていた。そもそもの発端は、夫人が名誉校長になっていた小学校の予定地として、国有地が安く売られたこと。新たな疑惑が次々浮かび、政府はその都度、釈明に追われた。加計学園問題で官邸の関与を主張した文部科学省の前川喜平前事務次官は、佐川氏について「どうせ辞めるなら自由に発言したらいいのに」と促した。同じ東大卒そして官僚とエリートの道を歩んだおふたり。人間として最後の生きざまそして人としての矜持の大切さを見せつけられたような気がする。
2018年3月11日 晴れ 8℃
慰霊碑には一人一人に大切な人がいて未来があった!
芥川賞を先日受けた63歳の作家若竹千佐子さんの言を借りれば、人生にはそれ抜きでは今の自分を語れない決定的な出来事がある。往々にして、それは身近な人との別れだ。例えば若竹さんは夫を病で突然なくしている。あの時自分に何ができたろう、もっとこうしてあげていれば-。そんなふうに何度も振り返る過去の事実が、誰にでもあるのではないだろうか。今、私は仙台市荒浜小学校、名取市閖上の被災地に立っている。涙が止まらない。あの日のことを思い出す。石に名前が刻まれた慰霊碑には一人一人に、大切な人がいて未来があった。あの日から7年の朝を迎えた。慰霊碑の前で、思いを寄せる多くの人の姿がある。おそらく今日は、多くの人が忘れ得ぬ日であろう。地震に続く大津波が、暮らしを根こそぎ飲み込んだ3月11日。まる7年がたち、街の再生は進む。一方で人の再生はどうか。心の内を見ることはできず、他者が安易に推し量ってはならないものでもあるが、考えてみれば、遺された側の痛み、孤独感は被災した人にしか分からないものだろう。でも本当はもっと、分かち合えるものではないか。しかし現実には、被災地では支援や関心の薄れが言われ、復興に、生活再建に微妙な影を落としている。郷里の東北の方言を交えた若竹さんの受賞作「おらおらでひとりいぐも」は、夫に先立たれた孤独な老境を描きつつ、不思議に明るい。悲しみは悲しみだけでなくそこに豊穣がある、という。多くを失った東北だが、そこには今を生きる人々の豊穣な物語がある。心の距離を縮め、耳を傾けたい。
↓名取市閖上
↓仙台市若林区荒浜
2018年3月9日 雨 9℃
啓蟄も過ぎ、春の日差しに誘われて虫も動き始めた!
植物は季節の移り変わりに敏感である。窓際に置いた観葉植物などが日に日に葉の色を濃くし、葉の数も増やしているように見える。外はまだ雪が積もったままで寒風が吹いていても、窓から入る日差しが次第に春めいてきたということなのだろうか。これからの季節、街路樹や花壇などの日々の変化を目にするのが楽しみだ。我が家の庭は今、マンサクが満開で、コブシの花芽などが膨らんでいるようにも見える。名は体を表すと言うがごとく、木の名前にも折々の四季を表すものがある。木へんに夏で「榎(えのき)」。炎天下に葉を茂らせて日陰をつくる良い木との意味に由来するそうだ。冬を当てると「柊(ひいらぎ)」。知名度は低いが「楸(ひさぎ)」の字もある。そして木へんに春はおなじみの「椿(つばき)」。今冬のとりわけ厳しかった寒さにも、たくましい生命力で耐えきった。梅や河津桜の便りが届きはじめた。季節の橋渡し役をけなげに務めてくれている。雪が舞う中であっても目をこらすと、あちこちで春の兆しを見つけることができる。二十四節気の一つ「啓蟄(けいちつ)」も過ぎた。大地が温まり、地中で冬ごもりしていた虫たちが穴から出てくるころという意味だ。ただし、虫が本格的にはい出てくるのは、もう少し気温が上がってからではないか。年度末から新年度へ向けて、春の穏やかな日差しに誘われるように、私の身も心も動き始めているようだ。
2018年3月8日 曇り/雨 3℃
地方創生は競争から協働へー9人全員野球を目指して
川崎町内の商店街を歩いてみても人々になぜか出会わない。昨日、仙台中心部を歩いてみると若い人であふれかえっている。まさに人口の一局集中の結果である。郡部も同じ傾向にある。今の日本は人口減少が進み、もはや大きな経済成長は望めない。かつての上昇期は終わり低迷期にある。こうした現状を「下山の時代」と表現した人たちがいる。その要諦は、停滞する日本にふさわしい思考が必要だという警告である。あるノンフィクション作家は、時代に即した価値観を提言している。自らの本「成功する里山ビジネス」(角川新書)に「下山の時代の町おこし」という項目がある。そこで福岡県津屋崎にある地域づくり団体の代表を紹介している。部員が100人いる野球部と9人の部とでは何が違うのか? 東京の建設会社から移住したその男性はそんな質問を投げかける。その上で「僕は9人のチームのような町づくりを実践したい」と言う。人数の多少はもちろん、人口増加と減少の時代を例えている。100人の部では選手は一つのポジションに特化して技術を磨き、他者を蹴落とすための激しい競争が起きるが、9人のチームは一人抜けても試合ができない。全員がどこのポジションもこなし、互いにカバーし合う協力が大切。コミュニケーションも欠かせない。町おこしの基本は「みみずの視点」だという。派手なイベントでにぎわいを演出するのでなく、地域の土壌を豊かにし地中に養分を与え花を咲かせる。地域創生は競争から協働へ舵を切り直し、「9人の全員野球」のすばらしさを展開すべきであると思う。
2018年3月7日 晴れ 4℃
ほんとの空が戻る日まで支援を続けたい!
3月がまためぐってきた。7年前から、この月は春を迎える以上に重い意味を持っている。東日本大震災を振り返り再生を祈る月。傷跡が少しずつ癒えていく様子が、ゆっくりと訪れる東北の春となぜか重なる。眼科へ行く途中の広瀬川河畔を歩きながら、東日本大震災のことを思い出す。津波に洗われた陸、原発事故で汚された空を取り戻す作業がいまだ続いている。「ほんとの空が戻る日まで」は復旧・復興を支援する福島大の合言葉。福島の現状を知らせるため、このタイトルのシンポジウムを全国各地で開いている。「阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に/毎日出てゐる青い空が/智恵子のほんとの空だといふ」。高村光太郎「智恵子抄」から。中井勝己福島大学長は「安達太良(あだたら)山の上の空がほんとの空でないと思う県民はまだ多い」と語っている。「ほんとの空」とは古里のことだ。病弱の智恵子は、時々田舎の空気を吸わなければ体がもたない。光太郎は「智恵子の半生」に「彼女の斯(か)かる新鮮な透明な自然への要求は遂に身を終るまで変らなかった」と書く。避難を余儀なくされている福島の人は、今なお5万人を超える。懐かしい古里をひたすら思う姿は智恵子と共通するものだろう。福島だけではない。福島だけではない。宮城でも岩手でも、古里につながる道を人々が歩み続けている。春がすみの言葉のように、その視界はまだぼんやりしているかもしれない。けれど、信じて進みたい。その先にきれいな空があるはずだと信じている。そして家内とともにできることを自然体で支援し続けたいと思う。
2018年3月5日 曇り/小雨 7℃
春の気配が感じられる弥生の月が始まった!
弥生3月である。そう聞いて、感慨深い思いがじわりと湧いてくる。春の日差しがまぶしくなってきた。でも大雪が積もっている地方の人々は大雪に翻弄され心身ともにぐったり、疲労感が残っているのではないだろうか。でも、あのドカ雪が今では路面から消えてきている。確かにどれだけ積もった雪でも、春になり太陽を浴びれば解けて流れる。それは重々承知しているが、雪かきなどの苦労は何だったのか、妙に無力感にとらわれるときもある。ただし消えゆく雪がつくり出す造形に心が和むこともある。山あいの木々の周りの雪だけすり鉢状に消えているのを見かけるようになってきた。「根開き」という自然現象で、春の到来が近い証しである。なぜ樹木の根元はぽっかりと穴が開くのか。反射率の違いらしい。白い雪は光を反射し温まりにくいが、黒っぽい木は光を吸収し温かくなる。その熱が融雪を早めるという。庭に目をやれば、マンサクの黄色の花も咲き始めた。クリスマスローズのつぼみも膨らんできた。そしてやっと「フキノトウ」も顔を出し始めた。春の予兆の「根開き」を見て気分は軽やかになる。小中学校の卒業式も始まった。そして学生の就活のスタートだ。じっと我慢の冬から、はつらつ躍動の春へ。心機一転、新しい時間を切り開く新鮮な気持ちで3月を迎え、季節の風をを体に染みわたる。そして新しい春を大事に丁寧に過ごしていきたいと思う。